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FLAT122の心臓

アメリカのスポーツ紙はWBCにおいて「侍ジャパンの心臓は源田だ!」と言った。 ならば、FLAT122の場合は「波濤(HATO)」ということになる。

このバンドの中心に位置するのはNCDでもSPIRALでもない。 それほど多くの作品を持っているわけではない。演奏可能となるのはおそらく20曲もない。それでもその中での重さというのか、作品の重要度は随分異なる。 波濤は自分でも意外なのだが、NCDやSPIRALよりも圧倒的に新しい作品になる。それでも最初にテーマと展開部のみ作曲したのが2005年秋だから、他2曲が古すぎるのか、笑 2005年は、FLAT122結成の年(5月)になる。波濤はこのバンドのために書いた作品だ。そこがNCD・SPIRALとは違う。おそらくFLATの心臓と言い切るのは、その作曲時の境遇が大きい。 この年の秋、私は児玉桃さんのメシアン「幼子20の眼差し」を聴くこととなった。 このコンサートから受けたインパクトが波濤の下地に間違いなくある。作風は勿論、似ても似つかない。当時の私の技量でメシアンのような作品を作曲するのは素人が装備無しでエベレストに登るようなものであり、作曲する者として憧れがあって本作に向かっただけの話。強いてあげるなら、急速なアップテンポから次の展開部となるところの音使いに新しい部分があるけれど、それも長くは続かず、すぐに得意の浪花節に突入する始末。さて、この作品は他作と同様に凄まじい変更を繰り返して今に至っている。黒澤さんがフロントにおられた番外編のFLATではライン以外のハーモニーを全てやり直した上に4拍子を7拍子にするという罰当たりな改訂を行い、1年程度で流石にそれはお蔵入りと。そして今回の大手術になるが、これは長く私が自分の作風にドロドロとした疑問を感じてきたことへの後始末みたいなもの。 全体の構成をスッキリとしたもの。必然的なものにする事。それには、後半マーチングからエンディングまでのゴチャゴチャと連なる無用なパートを全て白紙の状態とし、冒頭のテーマにDCしてしまうこと。 そして、エンディングをイントロの違った形とし、曲の始まりに向かって終わって行くようなイメージを持たせることとした。 これで全体がスッキリとし、元々表現したいイメージを曲げないものになったかも知れない。林芙美子の作品に偶然同じタイトル「波濤」がある。しかも、ここに登場する町が釜石であり、私の生まれ故郷となる。そのあまりの偶然とイメージの重なりに充実した気持ちになる。波濤は、町を描いている。町で生きる人々の生活、産業、そしてそれを取り囲む自然とのコントラスト。作品がイメージに負けている状態を何とかしたい今日この頃です。 余談になるが、ファーストアルバムの波濤は、幾多の試練を乗り越えて発表した。演奏した曲というのではなく、トラブルから仕方なくミックスとシンセサイザーとサンプラーでやり尽くした音のごった煮がある種超えた存在となり、一定の評価を得たのだが、新しい波濤はFLAT122の本当のオリジナルとしたい。

1Lの言葉、、演奏をやり切る! ということ。

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